カバン物語の素「アラスカ魂」 2

アラスカ
さすがに広い!アラスカ。
調べ応えは十分で…(汗)。
 
昨日のアラスカ話の続きで。
今日は、地域ごとのこともざっくりお話ししようかな…と。(笑)
 
物語の背景に選んだ「アンカレッジ」も最後に登場しますので…。
 
 
【 内北アラスカ 】(フェアバンクス)
 
町の名は、後年副大統領になった
チャールス・フェアバンクスに由来しています。
 
数千年前より、この地域にはコユコン Koyukon ・
アサバスカン・インディアンが先住していました。
 
時は1901年。
キャプテン・バーネットがチェナ川に交易所を開き、
その1年後の1902年夏、交易所の16マイル北で
フェリックス・ペドロが金を掘り当てたところから
この町はゴールドラッシュ時代を迎えることになるのですが…。
 
なんと、ここでも日本人が深く関わっているのです。
その人は和田重次郎さん。
 
この金鉱の登録申請の役を任せられ、年末に
たった五匹の犬と犬ゾリで出発し、20日間かけて
カナダのドーソンに到着、一躍有名人となったのでした。
 
この登録で人々はどっとフェアバンクスに
向かい、ゴールドラッシュ突入…となるのです。
 
1903年ころより、電話も開設、電気が供給され、
暖房はスティームで、公衆衛生条例も施行…などなど、
人口は益々増加します。
  
1915年にアラスカ鉄道の建設、1938年に陸軍基地の建設、
1940年代にカナダに向けての
「Alcan Highway」アルカン・ハイウェイの建設。
 
1970年代には、アラスカを縦断する石油パイプライン
 「Trans-Alaska oil pipeline」 の建設…と、
フェアバンクスはゴールドラッシュ時代が過ぎても
発展成長を続けていったのです。
 
 
【 東南アラスカ 】(ジュノー)
 
アラスカ州の州都ジュノー市。
周辺は元々、
クリンキット・インディアンの
漁場でした。
   
現在は、古いロシア正教会や博物館、坂道に添って並ぶカラフルな住宅、
そして州政府や合衆国政府等の近代的なオフィスビル等が
深緑の山々と美しく調和して、
 
「リトル・サンフランシスコ」と呼ばれています。
 
市民の16.6%はアラスカ先住民、またはその混血です。
 
アラスカで最も温暖で海洋性気候に属し、
常緑の美しい山並を背に、 Gastineau Channel (ガスティノー海峡)
を挟んで、ダグラス島と向かい合うしょうしゃな町です。
 
 
この町は1880年に第一次ゴールドラッシュ時代を迎えます。
 
1900年にはジュノー市ができ、
1906年にシトカからアラスカの州都はここに移されます。
 
 
1916年に Alaska-Juneau 金鉱が建設されて世界最大となり、
ちなみに、1944年の閉山まで8千万ドルを産出しました。
 
 
【 西南アラスカ 】(コディアック)
 
およそ8千年前から人類が住み、
1763年に初めてロシア人が上陸した頃は
太平洋岸エスキモーのKoniags (コニアグ)族が
6,500人以上住んでいたということです。
 
1792年にアレキサンダー・バラノフが上陸して居留地を開き、
先住民にラッコを捕獲させて毛皮の輸出業を行います。
 
1867年アラスカがロシアからアメリカの手に移るまで、
コディアックの先住民の人口は破壊的な減少となり、
彼らの文化も消滅してしまいます。
 
ラッコの毛皮は主要産業として伸び、乱獲によって
まもなくラッコの絶滅へと繋がってしまいます。
 
(この時代の先住民の悲しい物語は
「Cry of the Wild Ram」という歴史劇になって、
今も毎年8月に野外劇場で上演されています。)
 
1882年Karluk Spit(カーラック岬 )に缶詰工場が出来、
コディアック島の水産業がにわかに活発になります。
 
1964年3月の大地震では大打撃を受けますが、
1968年にはコディアックは合衆国最大の漁港にまで、成長しました。
 
1976年国際法の200海里漁業権で米国の管轄が広がってからは、
今まで入港していた日本など外国の漁船団の数が減り、
現在、コディアックは陸上での水産加工業に力を注いでいます。
 
 
【 中南アラスカ 】(アンカレッジ)
 
1778年、イギリスの探検家キャプテン・クックが
アリューシャンからアラスカ半島に沿って東に進入してきた際、
 Turnagain (ターナゲン)湾で激しい潮流に度々舵を捕られ、
この湾の入り口に錨を下ろした…と。
 
アンカーレジ「Anchorage」
町の名は、これに由来しているらしいです。
 
 
現在アラスカ最大の都市アンカレッジでは、
市民の10.4%が、クリンキット―ハイダ・インディアンや、
アサバスカン・インディアンなどのアラスカ先住民で、
多様な文化を形成しています。
 
 
さかのぼること1741年。
ロシア皇帝の命を受けて北極を探検していたデンマーク人船長
V.ベーリングがアラスカに上陸、その後、ロシアや英国、
スペイン、アメリカの探検家がアラスカの各地に上陸しはじめます。
 
1867年にアラスカはロシアからアメリカに売却。
 
1887年から各地に金鉱脈が発見されて
ゴールドラッシュ時代へと突入するのです。
 
1914年、輸送力増大のためアラスカ中央部の
フェアバンクスへの国営鉄道の建設が始まります。
 
1915年には、鉄道建設の中心となったアンカレッジのテント村に、
職を求めたり一攫千金を夢見て数千もの人々が流入。
かなりのにぎわいをみせます。
 
選挙で町の名前を「Alaska City」(アラスカ) に、と決まるも、
合衆国はそれを認めず、結局、
1920年従来の名でアンカレッジ市が誕生したのです。
 
1939年から1957年にかけて軍需によるアラスカの道路や空港、
港湾の建設が進み、アンカレッジ市はさらに大きく成長していきます。
 
しかし1964年3月27日金曜日、中南部アラスカを襲った大地震によって
町の大半が破壊されてしまいます。
 
1974年には北極海からアラスカを縦断する
石油パイプライン「Trans-Alaska Pipeline」の 建設が始まり、
この10年間にアンカレッジ市の人口やオフィス・スペース、住宅等が3倍に増加、
市の経済は大きく発展していくのです。
 
そして1975年、市部と郡部は統合され、
アンカレッジ市は広大な面積の都市となります。
 
現在、「Alaska Native Heritage Center」
(アラスカ民族文化センター)では、
 
アサバスカン・インディアン、アリュート族、
イヌピアット・エスキモー、ユーピック・エスキモー、
そしてティムシャン、ハイダ、クリンキットの各先住民族が、
古くから伝わる民族固有の衣装や舞踊、伝統工芸などを広く紹介しています。
 
また、ダウンタウンを一歩出ると釣りや狩猟や
イチゴ摘みなど、生活と結びついたレクリエーションが楽しめます。
  
さらに市内には162以上の公園があり、
スキー場や夏にはサイクリング・コースとなる
クロスカントリー用トレイル、アイスホッケー場、
ゴルフ場、キャンプ場、そして水泳場が整備されています。
 
その他、
「The George Sullivan Sports Arena」 
「Alaska Performing Arts Center」
「 Egan Convention Center」 など、
国際的にも利用される各種催し会場も充実、
国際都市としての現在の姿があるのです。
  
 
と、今回はかな~り長くなりましたが(汗)
一回にまとめちゃいました~。(笑)
 
ちなみに。私たちが「アラスカ魂」の物語に
なぜ、「アンカレッジ」を選んだかというと…。
 
少々「出来すぎ」な(?)町の名の由来に
ココロ惹かれたのもあるのですが(爆)
 
…何だか、大都市の喧騒と充実した生活環境の中で、
脈々と、たくましく流れる「先住民族の血」
みたいなのを、イメージさせられた気がしたからです。
 
どんなモノにも歴史があります。それはただの
「時間経過」ではない…と思うのです。
 
かならず、共にした想いや瞬間がある、と思います。
「その想いや瞬間」という連続した流れをたどり、
縁あって、私たちと出会ってくれた「アメリカ古着」。
  
 
そんな感覚とちょっと重なる「白昼夢」を
この「アラスカ魂」というカバンは、
私たちにみせてくれた…というトコロで。(笑)
 
 
長文、失礼いたしました…。

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