「リサイクル」の必然性と突然性。

そうそう。最近世間で耳慣れてきた「プルサーマル」ですが、その当時は、
「プルトニウムのサーマル リサイクル」?って感じだったんです。
 
その性質(原発の燃料を精製し直して使う、という)から、単純に想像すると、
思わず、勘違いさせられてしまいそうになるネーミングで、って、私だけですか?
 
で、「プルサーマル」とは、「プルトニウム」で動かす「サーマル ニュートロン リアクター
(熱中性子炉)」のことを指しており、それぞれの頭の部分、「プル」と「サーマル」を合わせた
「和製英語」でございますので、「サーマル リサイクル」とは、一応、関係ないということで。
 
とはいえ、原発燃料を「再利用」するという考え方自体は遠からず・・・かも、とか
しつこく思うのですが、どうでしょうか。
 
さて、「リサイクル」するにもコストはかかります、当然。
品物にもよりますが、一から製造するよりは低コストに出来るものもあれば、品質が粗悪になって
しまうものもあり、その使い分けは必要となってきます。
 
しかし、世間では「再利用」の素晴らしさ(というかその考え方の大切さ)が大きく
謳われていったように思います。
 
ここで突然ですが、現時点では、「プルサーマル」という事象が、以前に比べてはるかに広く人々に
知られることになったのではないか、と思っているのですが・・・。
 
実は私は原発自体はほとんど分からないままで過ごして来たのですが、「放射能」には子供の頃から
関心が深く(勿論、素人で知りえる範囲のことではありますが)、モノオモウところはあったりします。
 
で、「プルサーマル」。
 
今や、徹底され浸透した「リサイクル推進」の根底(かのような)「再利用」。
 
例えばなんですケド。もし、原発建設で賛否さめやらぬ最中、もしくはその後コッソリと
(または大々的に)臨界事故諸々が起こり続けている最中、いきなり「放射性物質」の「再利用」という
言葉を聞くことになったとして、その時点で庶民である我々は、どう感じていたでしょう・・・。
 
と、そんな風に考えてしまうのですょ。
 
「再利用」という言葉が当たり前で、むしろ「再利用」を考えないほうが「どうかしている」、
くらいの勢いの中、「原子炉」の「燃料を再利用する」のはしごく当然であり、むしろその
「必要性」を訴えかける力を持つ言葉となる「再利用」。
 
と、この時点で「燃料の再利用」と聞いたところで、「あぁそうか」。
 
「どのように」とか、そういった一連の大雑把な流れは、これまでの「リサイクル推進」により
「再利用」という事柄として認識されているので、我々庶民にとって「大体知っている」「身近」な流れとなり、
それ以上の細かいところに関心を向ける人の割合は、極端に減るわけです。
 
これは、一つ、人の心理であり、例えば「全く知らない=危機感・不安感=非常に知りたいと思う」
という現象が起こるとして。(知った結果により「排除」というのもアリ、として)
 
逆に「大体知っている=安心=それ以上興味がなければ関心が薄れる=詳しく知らなくても困らない」
という仕組みに似ています。
 
なぜ、それまで緩やかであった「リサイクル」が、ある日突然(かのように)急激に発展できたのか。
 
なぜ、人々は、思想的なまでに「リサイクル」を推進したくなったのか。
 
なぜ、「リサイクル」のメリットやその真髄のように位置づけられた「再利用」という方向性の方が
それに付随する様々な問題点よりも周知度が高いのか。
 
・・・とかね。
 
まだまだあるんですけど、「なぜ?」っていうところ。
 
まさに「不思議の国、ニッポン」、って感じで、とりあえず戦前・戦中・戦後より
マシかもしれない部分は、「知りたいことを知ろうとする努力」が
やや、出来うる可能性がまだある・・・のかもしれないコトでしょうか。

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